南海地震の想い出

南海道地震の記録 体験者の証言

南海地震の想い出

潮岬測候所 松居 銀四朗

ぐわんと下からつき上げられるような衝撃で目をさまされた。蒲団の中でじっとしていても、いつの間にかうつ伏せになって居ました。時に昭和21年12月21日午前4時10分であった。揺れていた時間は、数分だったが、10分近くも揺れていたように感じました。多分立ったら、物につかまらないと立って居られなかったでしょう。地震と共に停電、真暗闇の中で服を着ている間に、早や余震が来て恐ろしい。寒い朝で1枚余分に着て出勤する。ほとんどの人は寝巻1枚でふるえていた。地震と共に外へ飛び出したそうだ。余震が続くため、部屋に帰るに帰れないので、ストーブのそばで暖を取っていました。

串本警察署に連絡のため2人の職員が出発しましたが、間もなく馬坂で立木が倒れて通れないと引き返して来ました。

7時前、やっと東の空が白みかけて来たので、串本に向いました。馬坂(当時はもっと狭く、両側林であった)の下り口は、両側から木が倒れて通せんぼしていました。木の下をくぐり、或いは上を飛び越えて行く。高校のグランド西あたりから上の方に、多勢の人が立って海を見つめていました。みんな津波の襲来を恐れて避難して来た人達であった。下を見ると道路にき裂が出来ていた。殆んどが南北に走って居たように記憶する。

当時はまだ埋め立てがなく、電々公社の横を海岸沿いに桟橋前に行く。桟橋前のあたりはドラムカンや色んなものが一杯散乱していました。津波に洗われたものであった。

矢倉甚兵衛さんの石垣のあたりで、1米位の津波があったそうである。

袋港では、推定で8米位の津波で大被害を受け、流失した家の屋根がショバ谷の沖を流れて居ました。又、橋杭では、津波の襲来が早く(地震後15分位)逃げおくれて、母子2人が津波にさらわれて、尊い生命をなくしました。

測候所の袋港の検潮所も倒れ、記録は海にさらわれました。津波の引いた後、西浦の海岸では、打ちあげられたイカが沢山拾えたそうである。

10時過ぎには潮岬よりはるか北東方面で、すごい煙の立ち昇っているのが見えました。午後になるとその煙は成層圏まで達したのか、上部は平らに広がっていました。新宮の大火の煙であった。夕食には、タコの配給がありました。聞いてみると、袋に調査に行った人が、打ち上げられたタコをつかまえて来たもので、太平洋のタコはカタイ等と冗談を言いながら食したのは、恐ろしい中にもたのしかった思い出です。

当時の通信は、測候所では、大阪管区気象台との間に、トンツーと言われる有線電信と無線電信がありました。地震と共に有線は駄目、無線電信も送受信アンテナが切断されて、通信不能となってしまいました。早速修理に取りかかり、電源用の発動発電機も動き出して、午後には細々ながら連絡出来るようになりました。

翌22日には、大阪方面から新聞記者が来て、だんだん様子が判り、被害の大きいのに驚いた。その記者達が、新宮の大火の記事を見て来た様に書いて本社に送っているのには感心しました。今ならこんな事は許されないでしょうが、戦後の混乱と通信の不備から、当時では当り前の事でありました。

午後から新宮方面に調査に出発しました。鉄道は不通で、徒歩で行きました。古座の鉄橋の下手の当時の木造の橋は、津波で流されていたので、鉄橋を渡って下里迄歩き、そこから鉄道の保線用のトロッコに乗せてもらって勝浦迄行き、1泊して、翌日新宮迄バスで行きました。そこで、初めて倒れている家を見ました。今の裁判所の前あたりだと思いますが、初野地郵便局の2階建ての局舎が、1階がつぶれて平屋建てになっていました。本で読んだ事はありましたが、木造家屋では2階の方が割合に安全であるという事が、始めてわかりました。

仲ノ町から権現前迄、焼け野原でした。処々、煙の昇っている処もあり、避難先を書いた立札が方々に立っていました。駅前の方へは、丹鶴橋のそばの旧郵便局の手前迄焼けて、地震後の火災のいかに恐ろしいものであるかを物語っていました。

この調査旅行で、当時食糧難の時代で、勝浦警察署で救援米をもらい、又、古座漁協でもらったサンマを勝浦の旅館で焼いてもらって食べた味は、いまだ忘れる事は出来ません。

当時と現在では、道路も広くなり比較にはなりませんが、唯、地震の際には必ず火の始末は充分気をつけ、火事を起こさないようにしなければなりません。水道は止り、消火活動は大変困難であり、経験者も未経験者も新宮の大火を教訓として、心掛けてほしいと思います。