南海大震災の記憶

南海道地震の記録 体験者の証言

南海大震災の記憶

串本高校教頭 園部 健

ひどく寒い日であった。

物凄い地響に飛び起きた。津波がくるというので慌てていると、私の家の前を小学校の方へ避難する人々に交じって、毛布をかぶっていた町のお医者さんの姿を今でもありありと憶えている。

昭和21年12月21日午前4時であったとの事であるが、私は当時中学校の3年生であった。昭和16年に太平洋戦争が始まって以来、幾度となく空襲の経験をしていたので、少々の混乱や動揺には馴れていたが、動顚してしまうような経験した事もない大きな地震であった。津波のくる時は地下水が引いてしまうので井戸水が出ないというおふくろの言葉にせきたてられて、家族は西の丘へ避難した。西の丘の山で多勢の人々と東の空が明るむころまでいたが、家へ帰ってみると、店の薬は落ちてビンは割れているし、あちらこちらに薬が散らばって足の踏み場もない有様であった。また、丁度そのころ、私の家では漁船を買って波止場に繋いでいたが、それも津波に流されてしまうやらで惨々な目にあった。

その後、東海岸通りに津波の痕を記した木の杭を打ってあったように思う。

また、矢倉甚兵衛さんの門の前にあった小さめの風呂桶くらいのコンクリートの防火用水槽が押し流されて、玄関の所まできていたと後年ご本人からおうかがいして、津波の威力をまざまざと思い知らされたものであった。