子供を亡くして

南海道地震の記録 体験者は語る -部員聞き書き-

子供を亡くして

串本町袋 西野 実 68才
西野 マスエ 67才

西野さんの家族は、主人の実さんと奥さんのマスエさんと7人の子供の9人家族でした。

地震がやってきた時、マスエさんはタンスを倒されないように必死でおさえていたそうです。ゆれるのがとまって、外から主人が「出てこいよ」と呼ぶ声がしたので外へ出ましたが、その時にはもう第1回目の波がやってきました。マスエさんは長男の茂男を背中にせおい、四女の洋子(6才)を手でひっぱり、井戸のわくにつかまりましたが、水の量が増え体が浮き上がりました。子供を背負っていたワタ入れが軽かったからでしょう。その時主人は一人をせおい、もう一人を手でひっぱってにげていました。ようやく前の寺山の所まで逃げた時、子供が一人いないことに気がついた。五女の香津子さんであった。長女の栄子さんと二女の実子さんの話では「尾崎さんが津波やと言ったので、その後をつけて走っていた」ということだった。たぶん足の遅い香津子さんは、その時流されてしまったのでは、ということだった。

波は次々にやってきて、3回目の波でうちの家の棟がつかって流されるのがわかった。私たちは、西ノ岡へ避難していたが、朝になって串本の方へ逃げた。その途中、流された家が袋港の入口にひっかかっているのを見つけた。それをテンマ船で引っぱってきて、1週間目にやっとバラックの小屋を建てた。そんな事より流された子供が気にかかり、だめだろうとあきらめていながらも、あちこちを捜してみた。潮岬の方へも行ってみた。そして8日目にやっと見つかりました。袋には岡常の宿舎が6軒位あり、その宿舎の下のごみといっしょに押し流されていました。その時、私はたき木を集めていたが、近所の子供たちが「人形みたいのがある」とさわいでいたので、「もしかしたら、うちの子供では?」と頭の中にひらめき行ってみると思ったとおりうちの子供だった。うち傷は1ヵ所あっただけで、きれいなものでした。そして、お通夜もしないで、体をお湯でふき、墓へ持っていきうめてしまいました。

私たちは兄弟からお金を送ってもらおうと思いましたが、電報を打つお金がありませんでした。それで知り合いにお金を借り電報をうって、当時のお金で4,000円を送ってもらった。その4,000円が戦後の私たちの生活のもとでした。

私は津波がやって来、水のひく時、船が傾き、あのバリバリという奇妙な音、石がきの穴から吹き出るぶきみな水の音が、私の頭に残り離れないのです。

中西記