南海地震と津波

南海道地震の記録 体験者の証言

南海大地震と津浪

串本町田並 滝野 文夫

昭和21年12月、年末のあわただしさが日毎に増してくる頃でした。

私は用事があって、串本町新町の姉の家に泊まっていました。未だ夜も明けぬ4時頃、大きな家鳴りと共に物すごく家がゆれ始めました。私は2階の裏窓から屋根に飛び移り、ゆれている屋根からやっとの思いで下に飛び降りました。

ゆり返しが幾回かきて、やっと静まった頃、田並の自分の家や家族のことが心配になってきました。すぐに汽車で帰ろうと新町から矢の熊附近へ来た頃、到る所で石垣塀が崩れていました。

ああ、この様子では汽車もないだろうと思い、田並まで歩かなければならないなあと思い、袋まで歩いてきたところ、袋の家々は後かたもなく流失していました。

そのうちに段々と潮が引いて袋の中の島よりずっと沖まで干潟になってゆきました。しばらくするとジワジワと潮が寄せ始めました。見る間に袋港を溢れた潮は道へのり上げてきました。

私は危険を感じ大急ぎで山へ駆け登りました。潮は段々と山の裾を浸し、上の方へ押し寄せてきました。山から袋港を見渡しましたが、港の広さが倍増しに大きく見えたのが、強く印象に残っています。

しばらくすると段々と引き始めましたが、その勢いのはげしさは、筆や言葉で表現できない位物すごく、渦を巻いて引いてゆきました。

山を伝って袋の橋のところへ行きましたが、橋は流失していました。私は危険をおかしてやっとの思いで鉄橋へよじ登り、線路伝いに帰路につきました。

袋港の津浪を目撃した私は、田並のことが心配になり、心が落ちつかず、やっとの思いで家へもどりました。幸い妻や子供達は円光寺へ避難してぶじでした。

田並では町なかの円光寺の石段3段ぐらいまで津浪が押しよせ、私の家では床いっぱいまで浸水して、道にははきものが浮いて流れていたそうです。

浸水家屋ははっきりしませんが、相当数の家が浸水したそうです。悲しいことに小学校5年生の女生徒が、津波のために一命を落とした参事がありました。

田並駅附近の田では、たくさんの海の魚が泳いでいたそうです。