どん底から

南海道地震の記録 体験者は語る -部員聞き書き-

どん底から

串本町袋 浪 球子 64才

私たち一家は、大阪に住んでいたが、空襲に遭って焼き出された。

私の故郷である袋(串本)へ疎開して来たのが昭和20年7月頃だったと思う。終戦後も、そのまま住みついて、翌年6月には、家を新築して、戦後の新しい生活を築こうとしていました。

ところが、昭和21年11月5日、私の夫が慣れない漁業で沖へ出て、シケで遭難するという事件に遭ってしまいました。アメリカ軍のヘリコプターで捜索してもらったが、とうとう夫は、帰ってきませんでした。残された私は、5人の子供を養うために、魚の行商で生計を立てていました。

昭和21年12月21日、その日も3時半頃に起きて4時頃には買い出しのために四女の輝子を背中に背負い、長男の哲夫と共に家を出たのでした。長女・葉子(10才)、二女・露子(7才)、三女・綾子(4才)の3人を残して・・・・・・。

ちょうど20分くらいして、小学校の前まで来た時に、大地震が襲って来た。子供の事がすぐ頭の中に浮かんだ。それで、すぐに引き返した。途中で山の上から直径2m位の石が落ちてくる中を必死でくぐり抜け、袋に着いた。

袋に着いた時には、第1回目の津波が足もとまでちゃぶちゃぶときた。今まで地震による津波の経験がないので、その恐ろしさを知らないため、子供を助けに行こうとした。ところが、海水がどんどん増えて足が立たなくなり、瀬上の造船所まで流された。その時、自分も子供もいっしょに死ぬかと思った。

そのうち、ものすごい音をたてて潮が引き始めた。私が流された所は、たくさん船が打ち寄せられていたので、私は伝馬船とビャクシンという大きな木にはさまれて助かった。

私は子供を助けに行こうと思ったが、2回目の津波が2階の様な高さで押し寄せて来た。私は反対側の山の方へ逃げてやっと石段の上までたどりついた時には、腰まで波がやって来た。そのときには、3人の娘共々家屋一切残らず、その波にのまれてしまっていた。

背中の四女は水を飲んでぐったりしていたが、私は流された娘の事ばかりが頭の中でうず巻き、ただ、ぼう然としていた。その子は、向井病院で逆さにして水を吐かせ、肺炎で2週間入院したというが、私には全然記憶がない。津波後、暫くは流された3人の事ばかりで頭がいっぱいだったからでしょう。

流された次女の露子と三女の綾子は、翌日袋港で発見されましたが、長女の葉子は、なかなか発見されませんでした。ようやく1週間目に、田子に打ち上がった。少し頭に打撲傷が見られたが、その他は生前のままだった。

私は、この死んだ3人の娘のことばかり気にかかって、四女の世話など、身の周りの仕事が手につかなかった。精神的ショックが大きかったのやね。親戚の人たちが心配してくれて、病院で診てもらったこともあったが、別状はなかった。 しかし、ショックは治らず、当時警察から被災者ににぎりめしを3個ずつくれたが、私は1個しか食べられなかったので、私は骨と皮という様にやせてしまった。

家の再建については、当時の家では戸などを入れずにかかるお金は5万円で、県からの補助は2万5千円で、それを月賦で払い、あとは親戚の人たちが出してくれて、やっと建てることができた。ところがお金がないため、9年間もたたみをよう入れないで生活した。

こんな事は、私とこだけとちがいますか。自分では、串本きっての貧乏人やったと思てます。

流されたあと、私は行商、作業員、大阪百貨店、銀行といろいろ仕事をかえて生活してきたが、苦しかった

高校生だった長男は、家のことがようわかるので、授業料がいるというたらすぐやるのに、なかなかよういわん。それで授業料を納めるのが遅くなって、ある時、学校で注意を受けたといって、涙ぐんでいたこともあった。クラスの生徒から事情を聞いた先生が、家庭訪問してくれたこともあった。

また、友達が配給で傘や靴などを買った物などをよく見せに来ていたが、あの子には買ってやれないので、つらい思いをした。ほんとに、10円のお金もなかった程でした。

まもなく長男は就職して、私も幼稚園、保育所の仕事が見つかり、なんとか生活を続け、今では心臓が悪い位で、この病気さえなければ幸せです。

来年は、もうあれから33年になります。死んだ子供の33回忌を訪うと思っています。

(昭和52年8月)
苫谷記