想いを新たに

南海道地震の記録 体験者の証言

想いを新たに

木 魚 庵

南海地震からもう30年になると聞いた、赤ちゃんが立派な青年になる歳月が流れた。関東震災、伊勢湾台風などと共に日本災害史に特筆さるべき地震ながら、戦中戦後の生死の境をさまようようた苦しさも、南海地震の恐怖も歳月はその記憶を遠くへ押してゆく。

安政の大地震と大津波の話は古老から聞いて居るが、記録的には残されていない、聞いて居る者はまだよい方で全然知らない人の方が多い。こうした意味で今回の高校歴史部がこの地震を改めて記録として残そうと立ち上がった事はうれしい事であり、賛意を表したい。出来る限りくわしく書き残して欲しい。

地震には上下動とか横ゆれとか其の他の型があり、それを度で表し強弱を知らされ、現在は専門の学者が最新式の器械を使って発生地や震源の深さなど探究しているが、今の所究明迄はゆかないらしく、これが予測出来る様になれば救わるであろうが。

人体に感じないが地震国紀州には毎日の様に発生している。くわしくは又その理由は知る由もないが、割合夏には少なく冬季に多いのはどんな訳なのか、南海地震も12月21日であった。其の夜大きい上下動に驚き横ゆれにおののき、次ぎ次ぎ頻発し家が潰れるのではないか、家内一同は死ぬのかそれはそれで覚悟はするが、潰れた場合どうしてどこから逃れるのか、余震の大ゆれが無ければよいがと生死の境をさまよう思い、兢々として息をこらしての一夜であった。

地震には津波がつきもので地震同様の被害が起きる。だが串本の場合、埋立てと言う防波堤が出来ているのだから、吾が家のこの辺り迄大浪が上がってくる事は先ず考えられない。不安のなかにも一抹の安心感があった。

家の流される時は吾々ばかりではないが、ここにも命と言う事を考えさせられた。

朝明けをまち兼ねて、うす暗いなか階下を店内をと見て廻ると、引き潮の後の潮だまり、表戸はすっかりこわされている。ガラス戸、陳列ケースことごとく姿なし。尚驚いたのは吾々の手では一寸動かしも出来ない大きな材木が三本ころがっている。どうして表戸をつき破りはいってきたのだろうか。自然の猛威波の力。足の踏み場もない散乱した店の中にガラスの破片が昨夜のすごさを物語るかに光っている。やっぱり大津波であったのだ。

手のつけ様もない店内に佇ち唖然とした。

それにつけても小舗の家宝とも言うべき俳人碧梧桐先生が書いてくれた店名の扁額がすっかり水びたしになり破れて失っている。

近所の家では掃除や乾し物片付けが始まっているが、暴れん坊のこの材木を取り除けねば如何とも手の施し様がないまま、半日余り佇ちつくした。古座の材木業者が来てやっと暴れん坊を除けてくれた。

若い頃満州に住み、中国語の夜学へ通った。中国語の中に「没法子」(メインホーズ・仕方がないあきらめの意)を思い出した。この惨状苦情はどこへも訴えてゆく所がない。でやっと落付きが出来た。

アメリカのサンフランシスコは高低の坂の都市である。際どい坂の上に何十階のビルが建っている。地震が起きたら、と尋ねると何百年地震が無いと言う。満州もオーストラリヤもスイスも、地震を知らない有難い国。日本は毎日の様にゆられている。その上年毎に見舞われる台風と水害、日本人は災害の宿命を負いながら生きねばならぬ。

関東大地震は地震と共に発生した火災で焼野原となった。高層ビル、厚いガラスの破片が降ってきたら、ひしめく人間皆殺しの惨状となろう。昔と違ってセメント造りの家々だから、火災より恐ろしいのはガラスの破片の雨だろう。刃物の降ってくる大都市社会に人々はひしめき住んでいる。

串本はまだそこ迄行かない幸せの街である。

串高の歴史部の諸君のおかげで、私は地震もさることながら、津波の惨状の想いを新たにする機会を得た。