ハダシのままで

南海道地震の記録 体験者の証言

ハダシのままで

串高教諭 師崎 多喜夫

南海地震があったと聞いたのはバンコック北方のロッブリー飛行場の兵舎に於いてであった。21年6月復員して当時の模様をしったが、余り大した事もなかったという事で平穏な毎日でした。

2回目の地震津波があったのはその年の12月明方、おそく就寝したので未だ深く眠ってはいなかった。ガタガタと来た瞬間、飛び起きた。中腰になって襖をあけようとしたがとっさに開かない。階段を降りようとしたがフワついてまともに降りられない。父の呼ぶ声がした。障子もかたい。

ともかく外に出た。近所の人の声がする。「津波だ。」真黒闇の空の下で、人々は小学校の方(山の方になる)へ走っていく。

寝巻の上に1枚着たきり、而もハダシのままで小学校校庭についた。自分乍らあわてていたのに気がついた。

西の丘の中腹に可成りの人々が登っていたが、校庭でも大丈夫だと思った。

ゆれがおさまったので皈宅した。両親はどこに避難したか確認出来なかった。家から約20米、山寄りの道路に伝馬船があった。ここまで水が来たのだと思いながら急いで皈った。道がぬれていて冷たい。

店(自宅)のガラス障子、ショーウインドのガラスは全部破損しているし、雨戸も外れている。庭には砂が敷きつめられたようになっており、小さな箱が散らばっている。

座敷には水が上がっていないが、よく見ると僅か2センチ位の差しかない。床下浸水でとまったのは幸いであった。

あちこちで被害の話が出はじめた。浜側50米の方では襖の中程まで水が来ていたし、特に袋は全滅だということであった。袋の入口から盛り上がった海水が線路にそってその堤防にさえぎられて高まり、家を押し流した。母親が早朝出かけて行き、子供2人を家の中に残したまま施錠していた為に、その2人は外に出られず家とも流された。母親は半狂乱になってしまったという。

我が家は、柱がわずかにかたむいた程度であったから、地震で家が倒れるというのは、直下地震の時位かもしれない。

津波の影響は、袋のようにリアス式の海岸になったところでは大きいと聞かされた。

串本下浦のような形の港は被害がそれ程ではないが、浅海漁場で港をとじ込めた今日ではどんな影響が出ることやら、孫子の代になってしることであろう。

あとで聞いた話だが、串本潮岬は全滅だという話で、東京大阪方面のラジオではそう放送したという事だった。そのわけは、潮岬の無線局の電源が切れた為、電波をキャッチ出来ず、無線局まで海水が来たという、今から思えば想像も出来ないような判断がなされたのであろうか。そんな事が起きれば、将に日本沈没というところか。