絆のものがたり

日本とトルコの絆をつないだ物語

イラン・イラク戦争の際、48時間後に迫った攻撃。取り残された日本人216名。

そのとき、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員がイランを脱出。

それは、95年前のトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる、絆のものがたり


1890年、エルトゥールル号の悲劇

トルコから日本へ、親善使節団派遣

19世紀末、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しんでいたオスマン・トルコ帝国皇帝アブドゥルハミト2世は、明治維新後同様の立場にあった日本との平等条約締結の促進と、明治20年の小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、親善使節団の派遣を計画しました。親善使節団の特使には、エミン・オスマン海軍少将(日本への航海中に提督「パシャ」となり、オスマン・パシャと呼ばれた)が任命され、使節団座乗艦としてフリゲート艦エルトゥールル号が選ばれました。

明治22年7月14日、イスタンブールの港を出港したエルトゥールル号は、スエズ運河を抜け、途中各地のイスラム教国に教主国としての威厳を示しながら寄港、明治23年6月7日に横浜港に到着しました。

オスマン海軍少将一行は、明治天皇に謁見し、アブドゥルハミト2世皇帝より託されたトルコ最高勲章および種々の贈り物を天皇に捧呈し、併せて両国の修好という皇帝の意を天皇に伝えました。これに対し、明治天皇は、使節に勲章を授け、饗宴を賜いました。

エルトゥールル号写真
エルトゥールル号
全長 79.2m(船首飾~船尾端)、艦幅 15.1m、2,334トン

台風の季節、帰国の途へ

使節団一行は東京に3か月滞在、その間官民を挙げての歓迎を受け、明治23年9月15日、横浜港を出港、帰国の途につきました。日本国当局は、9月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が建造後26年を経た木造船であることから、出発前に修理を行うよう勧めましたが、オスマン少将は帰途が遅れないようにと、予定通り同日出港しました。

エルトゥールル号の遭難

 横浜港を出た翌日の9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していましたが、同海域において折からの台風に遭遇、猛烈な波浪と強風のために航行の自由を失い、次第に樫野崎に寄せられ、古より船乗りたちにおそれられた船甲羅岩礁に激突しました。

船体破損部から流入した海水が機関の爆発を引き起こし、オスマン海軍少将以下587名が殉職、生存者わずかに69名という大海難事故となりました。

不眠不休の救助活動

この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が遭難将士のために寄せられました。

69名の生存者は神戸で治療を受けた後、同年10月5日、比叡、金剛の2隻の日本海軍の軍艦により帰国の途につき、翌明治24年1月2日、無事イスタンブールに入港、トルコ国民の心からの感謝に迎えられました。

神戸にて
神戸救護病院にて手当てを受けた乗組員たち。
皇后陛下から賜ったとされる白衣を身につけている。


1985年、トルコ共和国の 恩返し

「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」

しかし、日本からの救援機は来ない。

恐怖の声明

イラン・イラク戦争が続いていた1985年3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」という声明を発表しました。イランに住んでいた日本人は、慌てて首都テヘランの空港に向かい出国を試みましたが、どの飛行機も満席で搭乗することができませんでした。

世界各国は自国民を救出するために救援機を出しましたが、日本からの救援機の派遣は、航行の安全が確保できないとの理由から見送られ、空港にいた日本人は途方に暮れていました。

エルトゥールル号の恩返し

エルトゥールル号の遭難から95年後、日本人の危機をトルコ共和国が救う

そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのがトルコ共和国です。トルコから駆けつけた救援機2機により、日本人216名全員がイランを脱出することに成功しました。タイムリミットのわずか1時間前のことでした。

当時、テヘランには多くのトルコ人も在住していましたが、航空機を日本人に提供し、トルコ人は陸路で避難をしたそうです。

「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」

なぜトルコの航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからずにいましたが、後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は当時、次のように語られました。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」


史実を後世に語り継ぐ

受け継がれる歴史と慰霊の祭典

日本とトルコの絆は、1890年のエルトゥールル号遭難から始まりました。
遭難の翌年2月には、遭難海域を眼下に見下ろす、殉難将士の遺体が埋葬された樫野崎の地に、地元有志により「土国軍艦遭難之碑」が建立され、昭和3年8月6日に、大阪日ト貿易協会の発議で第1回遭難追悼祭が催されました。

昭和4年4月5日には、同敷地内に日ト貿易協会により追悼碑が建立され、同年6月3日には昭和天皇が樫野に行幸され、慰霊碑に会釈を賜いました。

昭和天皇の慰霊碑への参拝の報がトルコに伝わると、トルコ共和国の建国者で初代大統領であったムスタファ・ケマル(アタチュルク)はエルトゥールル号殉難将士の墓域の大改修と新しい弔魂碑の建立を決定しました。委託を受けた和歌山県が設計、施工、監理にあたり、この慰霊碑は昭和12年6月3日に除幕され、50周年追悼祭もあわせて行われました。

エルトゥールル号の遭難は誠に痛ましい悲劇ではありましたが、日本の官民を挙げての救援活動はトルコ本国に伝えられ、トルコ国民の心の中に日本に対する親愛と感謝の念を根付かせるきっかけとなりました。
串本町では、エルトゥールル号の遭難以来、第2次世界大戦中には一時的に中断したものの、トルコ共和国との共催で5年ごとに慰霊の大祭を催し、現在に至っています。

日本・トルコ合作映画「海難1890」

エルトゥールル号とテヘランの日本人救出を題材にした壮大な映画プロジェクトは、10年前に田嶋町長から大学時代の旧友である田中光敏監督に出された1通の手紙から始まります。
2009年には、田中監督が串本へ視察に訪れ、エルトゥールル号の史実を詳しく知り、映画化に向けての構想が練られました。

文化観光大臣の賛同を得たことで、映画製作は大きく動き出したのです。 2014年には、安倍首相とエルドアン大統領の後押しがあり、国家級のプロジェクト規模に膨らみます。
多くの関係者の支援と協力により、映画『海難1890』は2014年12月にクランクイン。日本とトルコでの撮影を経て、2015年12月、全国公開となりました。


ものがたり関連のみどころ

トルコ記念館外観

トルコ記念館

館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができます。

慰霊碑

トルコ軍艦遭難慰霊碑

遭難現場である船甲羅岩礁を真下に見下ろす、樫野埼の丘にそびえる慰霊碑。今日も熊野灘沖を行き交う船舶を見守っています。

樫野崎灯台と水仙

樫野埼灯台

トルコ記念館と慰霊碑のすぐ近くには、日本最古の石造り灯台である樫野埼灯台があります。

海難1890(イメージ)

映画「海難1890」特設ページ

2015年12月に全国公開された「海難1890」のご紹介です。

記事

広報くしもと特集「色あせない絆」PDFファイル(2860KB)このリンクは別ウィンドウで開きます

広報くしもと2015年12月号の特集です。PDFファイルでご覧ください。


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