絆のものがたり

日本ではじめて、アメリカとの交流

日米修好記念館 館内

ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)より62年前。

はじめてのアメリカ人との出会いは、串本だった

 

貿易を試みて、鎖国下の日本へ

冒険商人であったアメリカのジョン・ケンドリック船長は、毛皮の貿易で中国を訪れました。そして日本とは交易できないと知りながら、日本に向かいました。
1791年(寛政3年)、ペリーの黒船来航より62年も前のことです。

日本・アメリカの、最初の出会い

ケンドリック船長の「レディ・ワシントン号」(ボストン船籍)と「グレイス号」(ニューヨーク船籍・ダグラス船長)の2隻のアメリカ商船は、串本大島に「悪天候のため避難した」とした立ち寄りました。

持っていたラッコの毛皮が高く売れるのではと交易を申し込んだのですが、当時の日本では毛皮はまったく価値を持っていなかったため、交易交渉は失敗に終わりました。

わずか数日の滞在でしたが、これが公文書(『マサチューセッツ海事史』ほか)に記録されたはじめての日米間の接触であるとされています。

この時、中国人船員が渡した漢文の書簡の他にオランダ語の書簡も手渡したようで、後の報告書に「蛮船二隻は亜蘭蛇、..」と誤解して記載されていました。近年、米国の資料が見つかるまでははじめての日米交流とは知られていませんでした。

2016年にはグレイス号乗組員の航海日誌が発見され、さらに詳しく状況が判明しました。

日本ではじめてアメリカと交流したのは、大島の住民

寄港地は、現在の雷公の浜(ナルカミ)とされています。日本側の文献によると、「水有之所にて..」とあり、雷公神社脇を流れる小川と思われます。この付近は、古くから集落があったようで、この人々が最初に日米交流を行った日本人になりました。

日米修交記念館建設と、ヘメット市(アメリカ合衆国)との姉妹都市縁組

レディ・ワシントン号の模型
日米修交記念館には、船の模型や資料などが展示されています。

レディ・ワシントン号ら2隻が串本町大島樫野崎近くに停船、交易を求めて来たことを記念し、1975年4月30日、日米修交記念館が串本町樫野に建設されました。

当地方(すさみ町江住)出身で、当時ヘメット市議会の副議長を務めていたケン・ニシノ氏が、この日米修交記念館建設の話を聞き、姉妹都市縁組みを斡旋。

1974年12月19日、N・ホワイト、ヘメット市長(当時)から国際電話があり、18日の議会で姉妹都市宣言の議決が行われたとのメッセージが伝えられました。続いて当町においても、1974年12月21日にヘメット市との姉妹都市縁組が宣言されました。

ヘメット市(アメリカ合衆国)  City of Hemet

ヘメット市の風景カリフォルニア州、ロサンゼルスより東へ約150kmに位置する町。山に囲まれた盆地になっており、主な産業は農業で、オレンジ、グレープフルーツ、モモなど果物の栽培。

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 ものがたり関連の見どころ

記念館外観

日米修交記念館

レディ・ワシントン号とグレイス号のアメリカ商船が大島に上陸した当時の様子を解説したジオラマや写真、船の模型などが展示されています。

展望台から見た海金剛

海金剛

鋭く切り立った岩礁に荒波が砕け散る迫力満点の景勝地。
日米修好記念館からは遊歩道で150mほどの展望台から望むことができます。