木曜島の真珠と白蝶貝の採取の物語
大きな収入を夢見て、アラフラ海の白蝶貝採取へ向かった人たち。
しかし待っていたのは、過酷な生活と危険な漁。
潮岬・望楼の芝と「潮風の休憩所」。当時の資料が展示されています。
1800年代後半から昭和初期まで、多くの日本人がオーストラリア北部のアラフラ海で白蝶貝の採取のため渡航しました。
高級ボタンの原料となる白蝶貝の採取のためアラフラ海へ出稼ぎに行った人が大きな収入を得たことが始まりと考えられています。
白蝶貝の採取に従事した日本人は約7,000人で、和歌山県出身者がその8割を占めたと言われています。
島の人々とともに活躍し、漁場の発見、漁法の改良を通してこの漁業を基幹産業とするなど白蝶貝採取事業を同地域の一大産業に発展させました。
採貝産業の中心地となったのが木曜島で、明治30年頃には同島の日本人渡航者の数は1,000人を越え、一時は全人口の60%を占めるまでに至りました。
白蝶貝は高級ボタンなどの原料となり、加工したボタンは欧米に輸出されました。
1870年代に、日本人ダイバーが使用していたヘルメット。
現在のような潜水具がない時代、危険な漁に従事しました。
移民制限法による過酷な生活
しかし明治32年、イギリス連邦政府により移民制限法が設けられ、日本人は帰化しなければ船を所有することができなくなったほか、病気等の特殊な場合を除いて陸に上ることが禁止され海上での生活を強いられることとなりました。
それでも日本人ダイバーは減らず、木曜島の真珠ダイバーのほとんどが日本人だった時期もあったようです。
危険な潜水作業
当時は潜水ヘルメットに船上からホースを繋ぎ、手押しポンプで空気を送っていました。船上と潜水夫の息が合わないと危険な労働でした。
過酷な潜水作業ですが、特に紀州人の技術がかわれたのでしょう。海底で獲物を見つける能力、辛抱強さ、高い賃金の魅力・・
高い賃金を夢見て渡航したものの、過酷な条件の中、潜水病や海流による遭難等で木曜島だけで約700名の日本人が命を落としました。そのうち150名が串本町出身者であったとされています。
木曜島には日本人墓地が整備されており、現在162基の墓の身元が確認されています。
木曜島の日本人墓地と慰霊塔
トレス市との友好都市提携
串本町からは渡航者の遺族の方々などが墓参のため定期的に木曜島を訪れていましたが、平成19年2月、在ケアンズ日本国総領事館を通じ、トレス市長から「両自治体の歴史的背景に基づき姉妹都市提携を行いたい。」との要請文書が串本町長に届けられました。
串本町では平成19年10月に串本町長を団長とする墓参団を同市に派遣し、木曜島の日本人墓地など現地の視察を行いました。
当地の先人たちがあえて過酷な環境に立ち向かった精神は現在の私たちが受け継ぐべきものであり、過去にあった絆を縁として新たな友好を開いていくことを目的として、平成23年12月にトレス市からナパウ・ペドロ・スティーブン市長を団長とする代表団が来日された際、「友好都市宣言」合意文書の調印式を執り行いました。