2メートルもの石垣を・・・

2メートルもの石垣を越えて漁船が・・・・

串本町橋杭  知野 鶴一

昭和21年12月20日の夜は風強く寒い晩だった。復員した次男と2人で、何時もの様にいか釣りに出かけた。其の年はいかの当り年、毎晩の様に何千何百といか釣友船の漁火で大にぎわいだった。其の夜に限って樫野灯台の光も、又漁火も何か不吉を思わせる様な光だった。漁も思わしくないので、午前3時半頃家にかえり、再び後片付のため船に戻ろうとした途中、国道迄出た所、ゴーと薄気味悪い音がして来た。地震等知る由もなく、5・6歩歩き出したら急にゆれ出し1歩も歩けず、うずくまってしまった。

物凄い稲光で目もくらむばかり、周囲を見渡すと人家も電柱も今にも頭上におおいかぶる様にゆれて、生きた心地もせず、何秒か何分か、とても長い時間に思われた。

すぐ家にかえり大急ぎで小学校に避難した。恰も19年12月の地震と津波の経験がまだ新しく頭に残っていたのが幸いしたのか、割合手っ取り早く避難出来ました。波止場に近い家の人が逃げおくれ、母子2人浪にのまれる等、いたましき犠牲者を出した。又19年の地震と津波の経験のなかった人達は、逃げるのがおそく、波の中を泳ぐようにして逃れたそうです。

幾度か浪が寄せる毎にバリバリと云う凄い音、わが家も駄目かとまんじりもしなかった。夜の明けるのをまちかねて家にかえると、何とも云えない悪臭と足のふみ場もない有様に、只ぼう然とするばかり。

家が海辺に近いが、前の家の畑に2メートル近い石垣をとび越して漁船が打上がり、あっちにもこっちにも魚が打ち上がっていたり、又体の不自由な老人がにげる事も出来ず、畳の上にすわったままで居て、汐が首迄つかったが助かったり、種々ありました。

家の中は言語に絶する荒れ方で、水位もフスマの取手迄来ました。津波のひいた後もガタガタと来る余震に、何度ヒヤヒヤさせられた事か。たたみを乾かし、其の上にねられる様になったのは、幾日位かかった事でしょう。

大きな地震があったらすぐ津浪、急いでにげよ、これが生きた教訓になりました。

あの恐ろしかった地震も津波も過ぎてしまえば何とやら、立岩も小ビシャゴ島と稲荷岩と大師岩の中間にあった岩がたおれて跡形もなく、当時の凄さを如実に物語っている。

戻る