線路づたいに歩いて

線路づたいに歩いて

串本町串本 岡 忠助

昭和21年11月20日和歌山に於て、21日田辺に於て、校長会議があり、21日夜田辺駅前の南海楼の3階に宿泊した。

21日の明け方、熟睡中を激しく揺り動かされ眼が覚めた。激震らしい、硝子戸も襖も倒れめちゃくちゃである。弁当用の藷を入れた飯盒を提げて出ようとしたが、電灯は消え硝子の破片が廊下に散乱し、生憎泊まった室は3階で出口はさっぱり分からない。(以後、私は他所に泊まる時には必ず先ず万一の場合、どこから避難するか確かめておくことにした)

やっと出口の判った時は、地震がすっかり止んでいた。外に出て見ると南海楼の大屋根の棟が折れ曲がり、向いの赤坊ホテルに泊まっていた人々も襖を蹴破って飛び出して来たと言っていたが、よく見るとそれは江住の婦人達で、塩谷福夫君のお母さんや矢形かずさん達であった。この婦人達は自家製塩を持って米どころへ、米との交換や買出しに行っての帰りで、皆それぞれ命より大切とも云いたい米を持っていた。

汽車は勿論不通であり、どうするか相談の結果、8時頃から線路を歩いて帰ることにした。(米は勿論すてることは出来ない)新庄駅にはまだ津波が押し寄せているし、田圃には死体が横たわり、大きな運搬船が田圃にでんと座っていた。

富田川を逆流した津波は堤をあふれ、付近の家々は見るも哀れに破壊されていた。日置川の鉄橋では米を担った婦人達の手を引いて渡った記憶がある。周参見と安宅の間のトンネルを通る時は、全くの暗闇で棒を拾い、それでトンネルの壁を擦りながら通りぬけたが、足元はわるいし、向こうから来る人は分かり難くて突き当たったこともあり、無我夢中であった。周参見も川を逆流した津波の跡がはっきりしていた。漸く江住に辿り着いたのは、夜の8時頃である。幸いわが江住村には、地震の被害も津波の被害も殆どなかった。国民学校の玄関前の石柱門の上に載せてある角石が相当ずれていたので、地震の激しかったことが分かった。(最近までその石がずれたままになっていたが、新校舎が出来てそれを正常にしたようである)

津波は入江付近、又は川沿いの周囲に損害を与える事がよくわかった。又、平常は思いもよらぬ重い物を、火事の時には軽々と持ち上げると云われるが、あの重い米を婦人達が田辺から江住までよくも担って悪路を歩いて来たものである。と今でも忘れることは出来ない。食糧の超非常時なればこそである。私は翌日串本にいる家族が気にかかり、又串本まで歩き通した。その年の暮に塩谷君のお母さん達が正月を前にして餅を持って来てくれたが、その餅の美味であったことは、生涯忘れないでしょう。

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