物凄い音響と海の振動が・・・・

物凄い音響と海の振動が・・・・

串本漁協組合長 吉村 宮一

南海地震を思い出して記せとの事で、私は多少手記と言いますか記した書類を串本漁協に残して居りましたが、昭和33年に火事の為焼失して何もなく、唯追憶して記してみます。多少の誤りもあるかも知れませんが、訂正されればと存じます。

12月20日の前夜から私達が出漁中でした、俗に言う夜焚網(焚入網)、私は3統を経営して居りました。1号(叔父・音松船)、2号(宮一船)、3号(弟・萬寿蔵船)、何れも船頭名。魚はウルメ鰯の漁が少々で、朝方出漁するのが普通でしたが、スルメイカ少々獲れるので、私は従兄弟清一郎君と同乗して通夜島沖で錨をおろして、朝の鰯漁に待機中に、清一郎君は朝午前3時迄イカを10匹位釣って並べて居りました。

私は3時から清一郎君に休む様に、4時から沖へ出て行こうと言うて、時間待ちにイカを釣って居りました。ボツボツと喰うのを8匹位釣った時でした。午前4時前でした。物凄い音響と又海の震動で、私の船は2頓足らずの電気着火7馬力船で、艫の間は板間で、板は震動で飛び交う。何事か未だ洋上の震動は受けた事はない。之は大地震だぞと清一郎も飛び起きて物凄い出来事だのと、其の静まるのを待って居ったが、山は鳴る、又何物か崩れ落ちる様な物凄い音が相当続く。北の山々は薄明るく、朝の夜明に似た明るさが奥山の方を照らして居りました。不思議な事だ、何の現象か今尚解明せず。然し、萬人の目撃した事実でした。

稍あって、今度は津波が来襲して来たのだが、私達は感じない。錨を揚げて母港に帰らんかとも思ったが、昭和19年の東海地震の体験を持って居った私は、地震の後に津波が来る。津波は湾内程被害が出る。此の地震は東海地震の何倍も強い。夜の明けるのを待たねば入港は危険だと僚船に命じるも、船員達は我が家の安否が気遣われるので帰港せんと大声で叫び続ける。私の網船船頭本田幸兵衛君は特に私に家が心配でないのかと迫ってきたが、喧しい、今帰港して何になる只死あるのみだ。津波の来るのを知らんのかと怒鳴り返して沖へ(反対の行動)出て、集合灯を点灯した。

何の現象かウルメが蝟集してきたので直ちに網を張った。僚船の弟も私の船の処に来た。ウルメの大群だ、火を着けよと叫べば、点灯するや否やウルメの大群だと之も網を入れた。2号は一番大漁した。叔父が出雲権現崎に出漁中でしたが、激震で津波が来る事と感じ、私達の船の許に走って来た。ウルメが来たので網を張って居ると叫べば、又点灯した。之も少漁乍ら網を張った。

暫して夜が明けた。其れ迄に潮岬方面出漁の船は我れ先に帰港した様だ。又私達の通夜島沖の船は私が入港せず又操業して居るため、皆此の附近の船は入港しなかった。然し、樫野臼島沖に出漁していた大島神明丸(伊勢谷寅太郎君)は、早く帰ろう、家は全滅だぞと私に呼び掛け乍ら、僚船を曳いて入港した。

丁度今の浅海漁場位の処に差し掛かった時、津波の先に乗ったのか船が持ち上がった様で、見るみる内に橋杭岩沖を飛び越えて古座の前迄飛んで来た。大変だ、舵を力一杯握って今度は串本近くに又戻って来る。然し、船は微速で前進して居るのに、津波の差し曳きの潮の流れの成す儘に翻弄されて若し操船を誤れば全員死亡の憂き目に遭う処だった、と其の恐怖の実況を語って居た。

又、串本の一本釣の早く帰った船は、帰港後の津波の来襲にあった様だが、私の隣家、石野太一郎君は、帰港後飛行機の繋留ブイに船を繋いだらしいが、襲い来た津波にブイが動かなかったが、津波の激流高波で船は転覆して波にさらわれて3日間捜索、4日目に矢倉甚兵衛下の浜に死体が上がった。

其の時、ウルメの漁獲を得て帰って来るが、海面串本湾から出雲崎迄は浮流物で一杯で、先ずドラム缶は海一杯に流れて居る。嗚呼串本は海の底ではと心配したが、視線に串本の桟橋が見える。家も見て居る、串本漁協が残って居る。何処かの油錨かと見れば、皆串本漁協のドラムである。物資欠乏の終戦直後、血の一滴と水産食糧供出量に対する報奨的油が、津波の為に桟橋の基点の漁協荷揚場に並べてあったものは、一缶も残らず海面に流れて居る。帰港の船々に収拾して来る様頼んで、或るいは積込み或るいは曳航と思い持ち帰ってくるも、家の屋根に瓦の乗った残骸が15、6軒も流れて居る。又、柱や壁も海一杯に流れて居る。串本、橋杭の海岸沿いは、或るいは流され、或るいは倒壊し、其れは引き潮に海へ流れたものらしい。

ドラム缶を曳航しての帰港中には、浜に曳き上げられて居った船は皆出雲道海岸に打揚げられて居る。又、串本漁港の防波堤の上にも、5、6隻の船が乗って居る。ウルメの大漁も何の手も付けられない。私達は町内会に特配と又無償配給も兼ね行って貰って、町民から感謝して貰ったが、西海岸(上浦)は津波のために袋港内への海水の盛り揚がりで、造船所で建造中の船は1隻もなく西浦一杯に流されて居り、又袋艫着けの家屋は1軒もなく流されて、又向い袋の家々も残って居る家は床上浸水と皆々相当の被害を受けて居る。津波の波は上浦から下浦へ抜け通った事は、私達生涯を通じて初めてである。現在の国道沿いの家々には、魚を拾った家も少なくなかった。

我が家の東海岸網納屋等は軒近く迄浸水やら又床上浸出、又漁協の充電所には緒方平八郎君が住んで居って、充電事業を請合って呉れて居ったが、初めの込み潮に床上迄来、女房子供を小学校に避難させるのに精一杯で、引き潮時か、許の我が充電所に来て見れば、屋内一面は蓄電池用稀硫酸が打ち壊れて、家内の衣服入れや箪笥の中に入ったのか、皆硫酸の作用で灰となる。寒空に物資なく、救援物資の配給の恩恵を受けたが、戻ってきてすぐに第二波か、第三波か、又物凄い高波が来る。萬事休すと思ったが、逃げる隙なく西側の電信柱に駆け登って打ち寄せる波を避けたと、其の波は坂本薬局近く迄も通った様だ。

又、串本の最も低い地域の堀の川跡に、私の同級生で出島岩次郎君の店があったが、出島君は本宅から店の安否を見定めんと堀の筋へ来た途端、東から大波が打ち寄せて来る。其の先端には漁船(小船)は飛んで来る。逃げる隙はないので、之も電信柱によじ登った、足許に小船が家を目掛けて飛んで来るので、足を伸ばせば丁度船に足が届いたので反対の方向へ蹴飛ばした処、対面の家に突込んで其の家が破れて流れて行った等の話も聞いた。

私は我が家に来て見れば、子供と家内、父母が屋外に筵を敷いて布団を被って倒れて来ても心配ない畠で一夜を明かしたが、屋根瓦は皆軒先に集って崩れ落ちんばかりとなり、又近所隣の人々は皆潮岬へと避難して居ったが、我が家は逃げずに避難したと聞いた。

以上の様な惨状なるも、串本警察は周参見との交信が出来ず、船1隻を手配せよとの申し入れあり、私と外1名で家の片付けは頼んで警官を乗せて周参見へ行った。周参見では河辺りの家々が被害あり、死者3名を出して死体を捜して居った。間もなく収容した様であったが、凡ての連絡を終えて夕刻串本着。此の日上空では飛行機が飛んで居った。

米国進駐軍の発表では、潮岬燈台が海中に没しつつあり、又串本港東西海岸又は湾内の写真を撮って新聞に掲載された。大島迄の間は、家屋の屋根の瓦の残った儘の写真、又西の上浦湾は袋の家屋と船の流れて居る様子、又西海岸に陸揚して居った船は湾内及び沖合、又、打揚げられて居った様を撮影して居るので、串本及び東西の海岸も同じ様に見えて、潮岬燈台も海中に没するだろうとの報道を流したようだ。全く未曾有の大災厄に遭遇した事である。

然し、町民は比較的冷静であったことは頼もしかった。即ち戦争の洗礼に、爆撃に、機銃掃射に、艦砲射撃にとあらゆる苦難に打ちかってきた経験、又昭和19年の東海地震と同津波(小さい)の経験は相当役に立ったと想う。沖合に出漁中の船は、陸岸へは慌てて帰港せぬ事は得策である、と感じた。

私は漁協長、串本町議も勤めて居ったが、救援物資の到達の暖かき心は身に沁みて感謝した。何時、何処に地震及び津波が来襲するか分からない。萬一の備えとお互いの助け合いの麗しい心は、何時の世でも持ち続けねば相成らぬと、特に島国の日本、地震の国日本、国民の常に心すべき事ではなかろうか。

戻る