材木にはさまれながら

材木にはさまれながら

串本町袋 奥 良太郎 67才

もう31年前の話なので記憶もうすらいでいるが、1週間くらい前から体に感じる地震が起こっていました。おそらく南海道大地震のまえぶれだったのでしょう。

私は運搬船の船長で船に乗っていましたが、たまたま前日帰宅していたのです。私の家族は、3人の子供と妊娠している妻と私の5人でした。その夜は地震を用心し、いつも2階に寝かしていた子供を1階に寝かしていました。

夜明け前、あの地震が起きたのです。ものにつられて立っているのがやっとでした。表へ出ようと思いましたが、ガラス戸があきませんでした。「津波が来るぞ。」というのをきいて、子供と妻とを避難させたのです。私は2階へ現金とライター、たばこを取りに上がりましたが、冬のでき事だったので、私は毛布とバッチを持ち出し、表でズボンをぬぎ、バッチをはこうとしていました。たしか津波がやってきたのは、地震がさって10分位たった後だったと思います。その時、最初の津波がやってきました。私ははきかけていたバッチをぬごうとしましたが、ぬぐにもぬげず、そのまま津波にまきこまれてしまいました。私は水の中でバッチを必死の思いでひきさきました。そして、今度は2回目の波で材木や船が私の方へ流れ、私はその間にはさまれ身動きができなくなってしまいました。私は現金がはいっているオーバーをぬぎすて、じばんとさるまた一つになり、材木の間からぬけ出し、うら山のがけを死にものぐるいであがろうとしましたが、草ばかりでなかなかあがれませんでした。

私はやっとの思いでがけをよじ上り、峠まで上がりました。私は峠から家族の名前をさけびましたが、返事はありませんでした。私はその時、私の家の者たちは死んでしまったのかと思い、あきらめてしまいました。その時は夜明け前だったので、峠から沖が少しみえました。津波はまるで大きくどす暗い土手のように押しよせていました。波はつぎつぎと押しよせ、異常な高さにまでも上がりました。2回目の波から家が浮き上がったかと思うと、3回目の波で平屋の家はみんな流されてしまいました。

薄暗い中で、ガラガラガラゴロゴロゴロゴロという、何台というかち車がとおっていくような音がしました。私の家は2階建てでしたが、4回目の波で家が傾いたと思うと、そのまま波に流されてしまいました。ボートーで固めた強固な家であったのですが、後で調べるとボートーはおれずにコンクリートをもぎとっていました。私の家は空襲でやかれ、新築したばかりでした。

津波で流された村の中で、目にとまる家がないはずなのに一軒だけぽつんと家がのこっていました。それは鉄工所でした。運よく鉄工所のベルトが流れるのをふせいだのでした。波は5回目ぐらいまで大きかったですが、それからは小さくなっていきました。

その間、港には100t級の運搬船が5~6隻はいっていました。潮が上がると船が流されるので、マンカーのガラガラのばす音が耳にはいってきました。串本造船所には勝浦の船で○○丸という30トン級の漁船がほとんどでき上がっていましたが、波で流され、潮岬の海に漂流していたそうです。

私の船は水徳丸といい、材木をまんさいし、向袋にとめていました。船には工場員と水事夫2人が乗っており、船は港の中を3回くらい回りました。鬮野川の川にまで来た時は引潮になって川口へ船が上がりましたが、次の波でまた浮いて流されました。3回くらいまわった後、最後にの方の谷へ押されましたが、袋港の出口のところでとまりました。

家内は別の所で避難し、無事でした。妻が近所に「奥のおいさん、見んかった。」ときいたら、「てん馬船で逃げやったわ。」と教えてくれました。妻はもうあきらめたようすででした。夜が完全に明けると、岬から江須崎まで漂流物でいっぱいでした。袋は跡かたもなく、ただ山のふもとに建具や畳などが打ちあげられ、串本造船所の所には船が3~4隻と漁船が打ちあげられていました。

私は親せきの家で2~3日やっかいになり、近くの魚の加工工場で空家になっている家で生活しました。その時、国は何の救いもしてくれんかった。お正月に京都の人がもちを送ってくれました。私はその味を一生忘れないことでしょう。

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