南海地震の経験より

南海地震の経験より

潮岬測候所  矢倉 正三

昭和21年12月21日~30年前の事でありうすらいだ記憶をたどって見る。

役所の宿直室   はっと目が覚めると寝台が部屋が大きく揺れていた。「地震だ」と直感して飛び起きると隣に寝ていたはずの同僚はすでに居らず観測室に飛び込んで見たが誰もいない。それもそのはず屋外の露場に緊張した顔で空を見上げていた。私も露場に逃げる。

ここに来て始めて恐怖による高い動悸を聞いた。しばしの後、地震計室に飛び込んで見ると、折からの所要のため来所していた大阪管区気象台の地震担当官が、所員1、2名に指示して地震波の検測に当られていた。若い私はやはり偉いなあと思ったものだ。

ウイヘット地震計、強震計共に振り切れて地震計の機能は停止していた。かろうじて次の要素が検測された。

震度 5
P波発現時刻 4時19分4.7秒
S波発現時湖 4時19分10.4秒
初期微動時間 5.7秒
震度初期微動時間より震源は近く津波が心配された。電話は勿論、有線無線の通信系統は全部不通。このため後で分かった事であるが潮岬全滅のような誤報が流れた。私は若いし潮汐業務を担当していたので、串本袋港の検潮所へ行くように指示された。冬の5時はまだ暗い、しかし寒さは感じる余裕はなかった。

古びた役所の自転車に飛び乗って、馬坂の上までは木片、瓦辺が道々に散乱していたが通行出来ないと云う程ではなかった。だが馬坂では大木が倒れて道をふさぎ、かろうじて体を曲げてくぐれる程度で到底自転車での通行は不能。すぐ引返して上司にその状況を報告し、又串本へ走る。馬坂から串本の西海上を見ると、屋根だけ見せて家があちこち流れて行く。町内西海岸は予想より被害が少ないと思ったが、袋に入ると地震津波の恐怖の爪跡が無残だった。

町内より袋へ通ずる道路はけずり取られて歩くのがやっと、大きな漁船が右側の山の中腹にひっかかっている。津波そのものの高さがこんなに高いのではなかろうが、袋入口が丁度集水域に当っており波高を大きくしたのであろう。造船所一帯の建物はつぶされて土砂の中、湾内を家が流れて行く山沿いの屋並の原形はない。検潮所の建物もきれいに流失している。妨害物を排除しながら検潮所に行って見ると検潮儀は略原形をとどめていた。

この検潮儀はケルビン型(ドイツ製)で当時は日本に2基しかなくどっしりした重い機械であったので流失をまぬがれたのであろう。

然し、私達がほしい記録紙は波にもぎ取られて見当たらない。津波の第一波の時湖、押しか引きか、最高波高は、津波の伝播状態は?

貴重な記録紙を求めて時間をかけてあちらこちらさがしたが、どこにも見当たらなかった。残念だが自分の家も心配で検潮所を後にした。

串本町内は袋港ほどの惨状はなかった。東海岸での津波波高は、大体1.5米と思っている。人々は後かたづけに忙しかったが、この日の好天にも恵まれて割合明るかった。

種々の書物に地震の除の注意事項がよく書いているが、特にV字型湾は津波に弱く袋港は非常に危険な港であろう。

(後記) 記憶がうすれているので細かい事は書いていませんが参考になれば幸です。

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