南海地震の想い出

南海地震の想い出

橋杭 西 弘

その時、家を揺さぶる震動に夢を破られた。物の落ちる音が屋内にひびく。家族互いに呼びかわす。容易ならぬ事態を感じていた。然し落ちついて着替える。外で津波が来るぞうという声。

30年前のその時の記憶は、今細部は定かでない。

家族連れだち東地の坂に歩き出す。私の住家は国道側にあり避難場所としたそこまで4、500米はある。村の細い道は諸所石垣塀が崩れ歩行も容易ではない。

折から師走も半ば過ぎ、暁までまだ間のある時刻で空には月もなく、無風で静かな暗夜であった。

坂の避難場所には既にかなり集まっていた。暫らく様子を見ていたが続いての動きもあるようにない。妻に促され幼児のために布団を取りに住居に戻ったが、まだ津波の襲来も無い。再び坂に戻った時、遠くで津波が来たぞうと呼びかわす声が聞こえて来た。

暗く静かな夜のとばりの中で何が起きているのか、すべての人は唯息をつめて橋杭岩の方向を見つめていた。燈火を点じた漁船がいくつも揺れ動いていた。

津波の引き去った住居に戻った時、その侵入の跡に茫然とする。東土間には隅柱を砕いて1隻の棒受漁船が横たわり座敷は仏壇の中程まで潮の打ち寄せ去った根跡を止め凄然たる様相を示している。50米と離れていない波止場に行く。潮はまだ津波の余憤を示す如く押し寄せ押し返しているもののもう道路を越す勢いはなかった。

余震も余波もなくなり、家々に避難者が戻る頃には夜も白みはじめ、暗夜に惹起された被害の姿が漸く皆に認識され出していた。

当時の被害は国道沿いの家は殆んど潮に浸され、流失家屋3軒・母子2人津波に呑まれ、その遺体が大島に漂着したことはまことに痛ましいことであった。

私の祖母は安政年間の生まれであったが、安政2年大地震の際、橋杭岩の最も沖にある一の島の足が見えるほど潮が引いたと古老は語ったと聞かされている。南海震災の津波の時はどうだったのか、誰からもその話を聞いたことはない。

当時、昭和21年12月21日は前年の敗戦より漸く1年4ヶ月。戦後の物資不足で荒廃した時代であり、戦争体験のまだ生々しい人には、少々の文化破壊に驚かない状況下にあった。人々は近づく新年を迎えるため、少しでも早くと跡始末に精を出していた。

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