タタミなしで生活を

タタミなしで生活を

串本町袋 東出 やえの

当時、お父さん(夫)が石屋をやっているかたわら、浜で潮たきをしていたんです。潮をたくのに海水を汲みに行くと干潮でもないのに潮がひいていたり、又今度汲みに行くと潮がいっぱい来ていたりしたんで、お父さんが「何か悪いことが起こるんとちがうか」と言ったんです。私はそんなことないやろうと相手にしなかったんですが、あの地震がゆったのは、その矢先でした。

その日、お父さんは寄合いで役場に行っており、10時30分か11時30分に帰って来て、私達と子供4人は神の間に寝ていました。あれは朝方の4時15分だったと思うんですが、突然グラグラと来たんです。お父さんはいち早く外に飛び出し、私はアキラをかかえて動くにも動けず、”チサト””チズコ””チエ”と子供の名前ばかり呼んでいました。

すると外で、お母ちゃん、お母ちゃんと子供らが呼んでいるんです。私は無我夢中で家の外に出ました。外に出て見ると、みんな寝巻のままで裸足でした。すると向いの尾崎のおばあさんが、「裸足らで逃げても、どうにもならん」と言って、草履を一足ずつくれました。

その隣りが浪さんの家だったので、「浪さーん、浪さーん」と大声で呼んでも、うんともすんとも言いません。こじ開けて入るのも悪いと思い、そのまま名前を呼んでいました。あの時、子供だけやというのを聞いていたら、こじ開けてでも入ったのに、可愛そうなことをしました。

私たちは西の平見の山に逃げていましたが、途中の小高い所まで行き、もうここまでくれば大丈夫やからと思い、「子供達をちゃんとやったらなあかんなあ」と思って、アキラを背中から降ろした時、足もとまで波がザーと来ているんです。私らはこらあかんと思い、山の上まで逃げました。

夜明けまで、瀬上さんや奥さんらと肩を寄せ合っていました。明るくなるにつれて、私とお父さんは家を見に行こうかということになり、床下か床上まで水が来たあるんとちがうかいなあと思いながら、安堵な気持ちでいたんですが・・・・・・

いざ行って見ると、あとかたもないんです。この時ばかりは泣くにも泣けませんでした。いいえ、泣くにも涙がなかったと言った方がいいかもしれません。

この時、潮が袋の潮見台のところまでひいていました。

それから2~3日たって、お父さんが町内会の会長だったので、いろいろと会議や対策におわれていたので、子供と2人で家のものを捜しに行きました。すると、家が2つにおれたらしく、半分がと崎に流れついていたんです。私達はこの時、お正月のためにいものいいのや、服、酒、米等をおいていたんですが、全部流されてバカらしい思いをしました。けれども、西野さんが流された子供を捜している泣顔を見て、「品物より、みんな無事でよかった」と心から思い、早々帰宅しました。それからしばらく親戚の家で住まわせてもらいました。

家を建てる時も、9坪3合の大きさしか建ててはいけないと役場からいわれていたんです。私達はこの時、くぎも満足にないので、古いくぎや曲がったくぎ等をもって来て、ひきのばして使いました。それから2年間というもの、畳も入れられない生活がつづきました。

そうですねえ。一番うれしかったことといったら、よその人からいろいろと救援物資を送ってくれたことですねえ。もうあんな経験は2度としたくないですねえ。

杉本崇幸記

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