「逃げろ」と呼ぶ父の声で

「逃げろ」と呼ぶ父の声で

岡地 昭吾

昭和21年12月21日午前4時19分に大地震が発生した。当時私達は新制中学1年生だったと思うが、終戦後外地から引揚げた私達は、串本木工(職安前)横の路地を20米程西へ入った所に家があり、職安前は浜だった。私達は父の敏しょうで適切な指示を受け、近隣では最も早く避難出来たと思うが、先ず揺り返し前、父の叱声に飛び起きて異様な地鳴りを聞いた様に思った直後、上下左右に激しくゆれ動く激震に、立つ事も這う事も出来ず、父に表へ引きずられるように表へ転がり出た。寒さも忘れ、唯恐怖におびえ乍ら激震のおさまるのを待った。その間父は避難用品をどうにかまとめて、浜へ走って津浪の警戒に当ったが、帰って来て程無く一人の男が浜からやって来て人々の問いに『津波はまだ来ないぞ!』と叫び乍ら脱兎の如く走り去った。直感的に危険を悟った父が『逃げろ』と叫ぶなり暗い道を小学校へ向かって必死で走ったが、足元は30cm位海水に洗われ、白い波頭が後から迫って来るのを見乍ら恐怖は頂点に達し、生きた心地も無かった。山へかけ上がって空の白むのを待った。

その間父が様子を見に山を下り、その惨状を聞いたが、6時半頃家へ帰ると、巡航船が家の前へ横倒しとなって居り、家の中は汚れに洗われ、襖の3分の2まで浸水した跡が生々しかった。すぐ下の浜は一面流れ出た家財道具や流れた家の木材で足の踏み場も無く、盗み等の対応策は当時の警察力では出来無かった様に思う。1日掛りで清掃を済ませたが、連続する余震におびえながら、その夜はまんじりとも出来無かった。翌朝壁新聞で町内外の災害状況が報じられたが、津波の為一家3人の子供(袋港)を含め、8人の町民の犠牲者が出た事は、痛ましい限りであった。

その後、地震と聞いただけでぞっとするが、浜の近所には住みたく無い気持ちは今でも強い。最近国内各地で地震が伝えられるが、忘れた頃襲って来る天災には、常に注意したいものだ。私にはその時の父の頼もしさと、乏しい衣・食を4人の子供にだけ与えた両親の有難さを、今尚忘れる事が出来ない。

浜から走り乍ら、逆の事を言った男が、動てんの為か自分だけ助かりたいと思ったか、その後町中のうわさになったが誰であったか定かでない。

時代は変わっても人の倫理をわきまえて、自由で民主的な法治国家日本を大切にしたいと思う。

戻る