「かけ島」干し上る

「かけ島」が干し上る

串本町田並  友野 末雄

昭和21年12月21日午前4時過ぎ、突然大きな音をたてて家が上下左右にゆれだした。家内は地震と叫ぶなり生後4ヶ月の次男をだきかかえて、戸外にとび出して行った。

小生は長男(3才)と共に今にも家が倒れるのでないかとびくびくしながら、暗やみの中で布団をかぶって寝ていた。震動は1分位だったと思いますが、たいへん長いように感じた。ゆれが止んで戸外に出ると、海岸の方から津波、津波と言いながら浜辺の人達が避難してきた。

夜が明けた。倒壊した家は1軒もないようだった。石垣や煉瓦塀が少しくずれた家は多かったようだ。紀勢線が不通になったので、毎日麦が殆どの弁当を持って、手製の下駄ばきで線路伝いに和深第1小学校に通勤した。8粁約1時間10分位かかったように思う。

地震で家が傾いた分、戸を締めると上の方が1糎位すいている。師走、寒風が遠慮なく家の中にまいこむ。その度に30年前の南海地震を思い出す。「災害は忘れた頃にやってくる」とは寺田博士の名言です。最近和歌山市附近に頻発する地震を思いながら、又「なまず」がうごくのではないかと心配する。

◎ 西地地区の人達の話によると、地震直後海を見ると港の中程にある「かけ島」が干上っていたそうです。 それから波がやって来た。高さは3.5米位、然し西地地区は浸水しなかったようです。 下地前地区の大半の家は床下浸水、中でも川口に近い家では、後数センチで畳がぬれるところまで水がきたそうです。

◎ 田並小学校5年生海老名なほ子さん津波に流され溺死する。 姉と一緒に避難した妹、「はる美」さん(当時2年生)は当時を思い出して次のように話してくれました。
両親が地震と叫んで間もなく裏の製材所の材木が海水と共に流れ込み、 約5センチ位で畳がぬれるところまで水がきました。前からは逃げられないので母は小さい弟達をだいて裏から寺の方へ行くといって脱出しました。 私達2人は父につれられて裏の溝をだいて渡して貰って、製剤所から流れた材木にしがみついていました。 父は流されんように、溝にはまらないように大声で叫びながら自分の家の漁船を見に行きました。 夜が明けてきました。姉の姿は見えませんでした。

戻る